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章なし

問題

近世の政治・経済・社会に関する次の文章を読み、下の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)

[ ⓐ 近世の日本は厳しい飢鐘を何度も経験した ]。将軍徳川吉宗の時代に起こった飢僅は、中国・四国・九州を中心にウンカなどの害虫が大量発生したことが原因であった。[ ⓑ 西日本の諸大名は幕府に救援を要請し、幕府は大坂で備蓄していた米や江戸で買い上げた米を被災地に廻送(かいそう)するなどの対策をとった ]。しかし、それまで幕府が進めてきた米価の引上げ政策の上に飢僅が重なったことにより、江戸では米価引高騰し、打ちこわしが発生している。
1783(天明3)年の浅間山噴火前後からは冷害が続き、長期にわたって深刻な不乍が続いた。この飢穫では、近世で最大の餓死者が出たといわれ、特に東北地方で被害が大きかった。当時、財政難に陥っていた諸藩のなかには、凶作が予測されると米価の騰貴を見越して、領内の米を江戸・大坂で高く売り払うところもあった。その桔果、領内で多くの餓死者・離散者が出たのである。飢謹は天災であると同時に、人災としての一面も持っていた。飢鐘の嵐が去ると、[ ⓒ 東北諸藩 ]のなかには藩政改革を行い、荒廃した領内の立直しをはかるものも現れた。
[ ⓐ ]に関して、近世の飢謹への対応・対策について述べた文として正しいものを選択肢のうちから一つ選べ。
  • (1)

    • 寛永の飢僅で農村が被害をうけると、幕府は百姓による田畑の永代売買を公認した。

    • 享保の改革では、上米の制(上げ米)により、農村から余った米を買い上げて米価の下落を防ぐとともに、飢鐘や災害に備えた。

    • 寛政の改革では、町入用節約分の7割を町会所に積み立てさせて、飢鐘や災害に備えさせた。

    • 天保の飢僅に際して大坂では、富裕な商人が米を売りおしみせず、米価は安定していた。