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章なし
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承久の乱
33%
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中世の政治・社会・文化に関する次の文章を読み、下の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)
ⓐ鎌倉幕府の支配の基盤には、将軍と御家人の間に結ばれた主従関係があった。先祖伝来の所領に対する支配を保証された御家人は、軍事的な奉仕で将軍の恩に報いた。彼らはまた、合戦での戦功によって、新たな所領を恩賞として獲得した。一族の維持、拡大をめざす彼らにとって、恩賞は大きな関心事であったから、その分配をめぐる不満が、政治に大きな影響を与えることがあった。 ⓑ承久の乱では、御家人が後鳥羽上皇方(京方)の没収所領の地頭に任命されたが、新たな没収所領が生まれなかった蒙古襲来では、恩賞をめぐって武士の不満が高まった。こうした不満を押さえるため、幕府は専制政治を強めたが、かえって武士の反発を買った。そしてその結果、ⓒ幕府は1333年に滅亡し、建武の新政が始まった。 建武の新政では、武士への論功行賞を行う機関も設置されたが、土地をめぐる武家社会の慣習を無視した政策などが原因で、武士の不満はさらに増大した。こうしたなかで、この政権は崩壊し、南北朝の内乱が始まる。
下線部ⓑに関連して、鎌倉幕府が幕府側に味方した武士に与えた文書である次の史料に関して述べた下の文a〜dについて、正しいものの組合せを、下の選択肢のうちから一つ選べ。 史料 備後国地砒庄(じびのしよう)(注1)の事、地頭重俊(しげとし)の子息太郎、京方において死去せしむといえども、同次郎(注2)、御方において合戦の忠を致しおわんぬ。しかれば重俊の地頭職相違なく安堵せしむべきの状、仰せにより下知くだんの如し(注3)。 (承久3(1221)年7月26日関東下知状) (注1)備後国地砒庄:現在の広島県にあった荘園。 (注2)同次郎:重俊の子息である次郎。 (注3)仰せにより下知くだんの如し:幕府の命令は以上の通りである。
a 次郎は、後鳥羽上皇側の味方として承久の乱に参加した。 b 次郎は、鎌倉幕府側の味方として承久の乱に参加した。 c 息子が鎌倉幕府側に味方したので、重俊は地頭職を安堵された。 d 息子が後鳥羽上皇側に味方したので、重俊は地頭職を没収された。
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