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章なし

問題

原始・古代の農業と社会の変化に関する次の文章を読み、下の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)

律令国家は勧農(農業の奨励)につとめた。石川県加茂遺跡からは、農民は早朝から晩まで農作業に従事すべきこと、[ ⓓ 灌漑施設 ]を修復すべきこと、5月末までに田植えを終えるべきとと、などを告知した849(嘉祥2)年2月付けの木簡が出土している。
また、[ ⓔ 郡司 ]の活動拠点とみられる遺跡などからは、種籾の管理・保管のために使用された木簡が出土している。それらには多彩な稲の品種が書かれており、すでに古代から早稲・中稲・晩稲の違いがあった可能性もでてきた。田植えや収穫の時期をずらして、農繁期の労働力を確保したり、風水害や病虫害による全滅の危険性を回避したりしたと考えられている。
10世紀になると、国家の勧農機能は低下し、地方豪族や田堵などの富豪百姓が勧農に大きな役割を果たすようになった。彼らは土地の開発につとめ、[ ⓕ 11世紀には開発領主として中央貴族などに所領を寄進する者も現れた。]
[ ⓕ ]に関連して、次の史料に関して述べた文として誤っているものを、下の選択肢のうちから一つ選べ。
鹿子木(注1)の事

一、当寺(注2)の相承は、開発領主沙弥(注3)寿妙嫡々相伝の次第なり。

一、寿妙の末流高方(注4)の時、権威を借らむがために、実政卿(注5)を以て領家と号し、年貢四百石を以て割き分ち、高方は圧家領掌進退の預所職となる。

一、実政の末流願西(注6)微力の間、国衛の乱妨を防がず、この故に願西、領家の得分二百石を以て、高陽院内親王(注7)に寄進す。これ則ち本家の始めなり。

(注1)鹿子木:肥後国(熊本県)にあった鹿子木荘。
(注2)当寺:教王護国寺(東寺)のこと。
(注3)沙弥:在俗の僧。
(注4)高方:中原高方。寿妙の孫。
(注5)実政卿:藤原実政(1019〜93年)。当時、大宰大弐であった。
(注6)願西:藤原隆通の法名。藤原実政の曽孫。
(注7)高陽院内親王:鳥羽天皇の皇女(?〜1148年)。
  • (1)

    • 開発領主寿妙の寄進により、藤原実政が領家となった。

    • 開発領主寿妙の孫中原高方は、現地を管理する預所となった。

    • 実政の曽孫願西は、国衝の干渉を訪ぐため、収益の一部を寄進した。

    • 実政の曽孫願西の寄進により、高陽院内親王が本家となった。