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章なし

  • 尊王思想の興隆

    33%

※数字(%)は出題頻度

近世の文化・政治・社会に関する次の文章を読み、下の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)

 1787(天明7)年は政治・社会に関する大きな変動が起きた年である。[ ウ ]が老中に就任し、いわゆる「寛政の改革」が始まった。この年、ⓒ江戸や大坂など多くの都市で、商家が襲われる打ちこわしが発生し、数年来の飢饉により各地で多発した百姓一揆とあいまって、社会不安が増大していた。
 京都では困窮民が天皇の御所の周囲を拝礼してまわるという事態が発生した。当時朝廷は幕府の統制下にあって政治的発言をすることは難しかったが、政治や社会に深い関心をもっていた光格天皇は幕府に対し、困窮民の救済を打診するという異例の対応を行った。
 同じく1787年に行われた光格天皇の大嘗祭では、古い儀式が数多く再興された。これは、武家政権成立以前の天皇像を理想とする、光格天皇の君主意識のあらわれとされる。この天皇は、のちに幕府との間で[ エ ]を引き起こし、対立することもあった。ⓓ尊王思想が興隆するなか、朝廷をめぐる新たな動きもみえはじめた年といえよう。
下線部ⓓに関して述べた次の文Ⅰ〜Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、下の選択肢のうちから一つ選べ。
I 宝暦事件において、京都で公家に尊王論を説いた竹内式部が追放された。
Ⅱ 藤田東湖・会沢安(正志斎)らが、尊王攘夷論を説いた。
Ⅲ 明和事件で、幕政を批判し尊王論を説いた山県大弐が死罪となった。
  • (1)

    • ⅠーⅡーⅢ

    • ⅠーⅢーⅡ

    • ⅡーⅠーⅢ

    • ⅡーⅢーⅠ

    • ⅢーⅠーⅡ

    • ⅢーⅡーⅠ

解説

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  • (1)
    I 宝暦事件は1758年。
    Ⅱ 藤田東湖らが尊王攘夷論を説いたのは19世紀前半。
    Ⅲ 明和事件は1767年。
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