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章なし

問題

中世から近世初期までの政治・社会に関する次の文章を読み、下の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)

1582年、統一事業を進めていた織田信長は、その一環として四国への派兵を計画していた。しかし、信長は明智光秀が起こした[ エ ]で敗死し、計画は実行されなかった。信長のあとを継いで、全国を統したのは豊臣(羽柴)秀吉である。秀吉は、信長の有力家臣であった光秀や柴田勝家を戦いで破って、信長の後継者の地位を確立していった。
この頃、四国で勢力を伸ばしていたのは、土佐の戦国大名長宗我部元親であった。しかし、元親は1585年に秀吉に服属する。これ以後、元親は秀吉から軍事的な負担を課されることになった。全国統一の過程では、九州の島津氏や関東の[ オ ]を攻めるために動員された。さらに[ ⓒ 朝鮮出兵 ]への参加も命じられ元親自身が文禄の役・慶長の役ともに朝鮮に渡った。豊臣政権下の一大名となった元親は、軍事行動をとる一方で、分国法を制定したり、検地を実施したりした。[ ⓓ 分国法の長宗我部氏旋書には、軍役や京排に関する条文などもあり、これらから元親の領国支配の方針 ]を知ることができる。
[ ⓒ ]に関して述べた文として正しいものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
  • (1)

    • この戦乱を、朝鮮側では壬辰・丁西倭乱とよんでいる。

    • 日本軍は、慶長の役で漢城(現ソウル)を占領した。

    • 当時の中国王朝であった清は、朝鮮に援軍を派遣した。

    • 朝鮮水軍を率いる李成桂は、日本側の補給路を断った。