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章なし

問題

政治家三島通庸に関する次の文章を読み、下の問いに答えよ。

 三島通庸は薩摩藩士の子として生まれた。急進的な尊王攘夷派であった三島は、同志と上洛して攘夷運動を行った。しかし幕政改革に乗り出した[ ア ]の上洛にともなって起きた寺田屋事件にかかわって、謹慎処分を受けた。
 その後、新政府軍の一員として旧幕府軍との戦いに参加した三島は、1871年、明治政府に出仕した。ここで三島は東京の[ イ ]に煉瓦街を建設することに取り組んだ。さらに三島は山形県令に就任して、ⓐ殖産興業を推進するとともに、土木・建築事業に力を注いだ。みずから太鼓を叩いて工事を指揮した三島は、「土木県令」の異名をとるにいたった。
 また、三島はⓑ高橋由一に依頼して、開発の様子を絵画に描き留めさせている。図に示した高橋の絵には、洋風の建築物が整然と並ぶ山形の市街地が描かれている。建築を通して、新しい時代を目に見える形で表現する。これが三島の考えた文明開化の姿であった。

下線部ⓐに関連して、明治期の殖産興業政策に関して述べた文として正しいものを次の選択肢のうちから一つ選べ。
  • (1)

    • 工部省を設立し、官営事業を推進した。

    • 日本銀行は不換紙幣を発行し、殖産興業の財源とした。

    • 重工業を促進するため、産業組合を組織した。

    • 工場法を制定し、工場設立を推奨した。